代表 工藤常泰
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倭国通信、
年5回発行
受賞論文特集
会員:田口裕之さんの論文
金印は「ヤマト」と読む
が掲載されました。
九州北部近郊の歴史研究会
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古代の日本はどんな国だったのでしょう。
本当に「倭国」の中心は「大和」にあったのでしょうか。
志賀島の金印は、本当に「かんのわのなの国王」と三段に読むのでしょうか。
中国の金印・銀印で三段読みの印はありません。それなのに、なぜ志賀島の金印だけは三段で読まれてしまっているのでしょう。
卑弥呼がいたのは本当に「邪馬臺(台)国」でしょうか。魏志倭人伝には「邪馬壹(壱)国」と書かれているのに。
645年とされる「大化」は、本当に日本最初の年号なのでしょうか。
学界は無視していますが、6世紀初頭には「九州年号」と呼ばれる年号が制定されていました。これは8世紀初頭まで200年近くも続いていたのです。
しかし、「古事記」や「日本書紀」にはほとんど書かれていません。いったい誰が何処で制定した年号なのでしょうか。
中国の正史には『日出づる処の天子』は男性だと書かれています。しかし、当時の推古天皇は女性です。ではこの天子とは何処の誰のことなのでしょう。
「倭の五王」たちは本当に近畿天皇家なのでしょうか。
「磐井の乱」で乱を起こしたのは本当に筑紫の磐井だったのでしょうか。
中国の正史「旧唐書」には、「倭国」と「日本」は別の国(別種)、と書かれていることをご存知ですか?
中国の正史に7世紀まで記録されている「倭国」とは、今の内閣府に当たる「太宰府」が置かれていた九州にあったのではないでしょうか。
いま科学的な古代史研究が次々に発表されています。
しかし、学界も教育界もマスコミも、これらの重大な疑問を無視したまま、大和に「倭国」の中心があったとする「大和一元説」を金科玉条とし、国民を教育しているのが現状です。
わたしたち「九州古代史の会」は、なにものにもとらわれず、「倭国」の本当の姿を究明している研究会です。 あなたも私たちと一緒に古代の真実の歴史に挑戦してみませんか。
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九州古代史の会は、古田武彦氏が提唱した「九州王朝説」を研究する市民の会として、1989年(平成元年)10月28日に発足しました。
当時、古田氏が提唱した文献史学的方法論は自由で先入観にとらわれない歴史研究として極めて鮮烈でした。
日本には近畿天皇家以外の中心権力はなかったという「大和一元説」にとらわれることなく、多元的視点での古代を研究することができたのです。こうして氏の「九州王朝説」は一般市民層にも大いに支持されてきました。
われわれは、そのような何ものにもとらわれない研究というものを大きな柱として、集まり活動を始めてまいりました。
しかし創立後も、会のあり方について、いく度かの曲折を経験してきました。
1989年発足当初の会名は「市民の古代研究会・九州支部」でしたが、1994年に「多元的古代・九州」と名称を変更し、信ずるところを堅持してきました。
そして1998年、九州にあったと思われる「倭国」像をさらに徹底して解明しようという思いから、「-『倭国』を徹底して研究する-九州古代史の会」と再度名称を変更し、今日に至っています。
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九州古代史の会の主な活動は、隔月発行する会報と、8月と12月を除いて毎月開催する例会・見学会です。
例会には、会員が研究成果を発表する通常の例会のほか、外部講師を招聘する特別例会、近郊史跡を巡って開かれる野外例会があり、見学会は宿泊を要する遠隔地を巡る旅です。
野外例会では、近郊の神社、古代遺跡などを巡り、各地に残る九州王朝の痕跡をいくつも辿ってきました。
見学会は、日帰りから二泊ほどの旅行会で、京都・奈良はもちろん、稲荷山古墳や三内丸山遺跡、遠くは韓国まで足を伸ばし、文献史学による研究を跡づける試みを続けてきました。
野外例会、見学会は、先入観を持たずに史料を確認するという会の基本理念を象徴するともいうべきもので、これまでに70回を数えています。
会報は、会員の研究成果の発表の場であり、会の発足直後から月刊または隔月刊で発刊し続けています。2016年11月現在で通算183号、掲載論稿数は1000以上になります。
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